昭和41年01月27日 朝の御理解



 よくお参りが出来るから、おかげを受けると言うのではない。人の真似の出来ん様な、御用が出来るから、もうお供えが、沢山出来るから、おかげを受けると言う訳けでもない。いやむしろ、お参りが出来れば出来る程、そうした垢抜けした御用の、一つも出来る様になれば、なるほど神様の、なるほど期待は大きくなるでしょう。けれども、期待が大きければ大きい程。
 せっかくお参りしておるんだから、もちっとがた位ありそうなもんだと、もちっと増しな信心生活がでけなければ、嘘ではないかと。折角これだけのお供えでも出来たんだから、これだけのこれに対する力を、受けなければいけんじゃないか。ただお供えしただけ、ただお参りしただけでは、でけたからと言うのでは、いけんじゃないかと言う様な。その働きがですね。ただいま申します様な。神様のその思いが、私し共の上に一つの働きとなって、こら表れて来る。
 こらもう生きた神様で御座いますから、確かにそれがはっきりする。お供えが沢山でけたから、そら神様が喜んで御座ると言うだけの事じゃない。その沢山のお供えが出来れば出来る程です。それだけの力を与えようとなさる神様の親心と言うものを、分からして貰うて、信心をより進めて行かなければいけないと思う。昨夜、土居の共励会で御座いました。昨夜正月初の共励会で御座いましたですから、随分、念がいったらしい、何時もよりちょっと遅かった。
 その間、ここで皆んなの帰りを待たせて頂いておる人達に色々、信心のまあお話しやら昔の信心話しやら、弾んでその帰りを待っておりました。中からですたいね、昔はよう本当に、怒られよりましたと言うな話しで(笑)本当に昔はよく、怒られましたですね。けれどもあら先生から怒られると言うのは、もう大した事ないですけれどもね、神様から怒られると言うのは、ヒドイです。
 矢張り身にじかに痛い思いをしたり、そんな思いをせなならん。先生からおこられるのなら大した事、怒られれるだけそれを畏まって、もし頂きゃそれでおかげになる。所が腹かいて参ってこんごつなった人達もあるけれども。やっぱそこを抜けきって、皆んなようおかげを受けたと、受けて来たと言う様なまあ、話しの中にです、森部の高山さんが初めて私しの話しを、田主丸の秋山さんと言う、秋山さんと言うのが、お婆ちゃん時々参って来るのですね、一番初めは田主丸のあそこでした。
 お話しに参ります所、あそこでそのお話しを致しております。もうあそこの幾部屋もありますのが、全部小さい部屋、幾部屋もあるその幾部屋は、みんなこう襖を取ってあそこ一パイでした。お話しを聞いて下さる方達がそこに、高さんが初めて私しの話しを聞いて下さったんです。そしてもう感心されましてですね、もう本当にこういうお話しはです、私しがその人数が多なりますと座ってじゃなく立ってお話しをする
 。それでそのどうでも惟はお説教台がなしには勿体なか、お説教台のおかげを頂きたいと言うて、もうそのよく日、早速田主丸のひもの屋で、あの説教台を注文されまして、そして四、五日後に自転車で積んで、お供に持って見えた事が御座います。これはもうあの当時ですから、もう13・4年もう10年位前の話しでしょうかね15年ですから。それはもうあの自転車の後ろに付けて、説教台持って見えたもんですから、もうこんな後ろに、その付き難いでしょう、それがもう乗られんでずうっと途中から。
 もう押してそのやって見えたと言うてふうふうやって、その金光様に持って見えた時に、もうそれこそ目から火が出るちゃ、この事じゃろかいと言う事お叱り、お叱りち言うが私しの叱りを受けられた事があるんです。まだお参りされて2遍目、3遍目位です。あん時例えば今の様な心、ちょうじ、是がお供え出来て、惟からまあ月次祭なら月次祭にお参りをして来るだろう。
 私しがあの説教台の前で、お話しをするだろう、そすと私しの説教台よりも、私しの説教よりも話しよりも、この説教台の方が目に付いて、あら俺がお供えしたちゅうごたる風な考え方では、おかげは受けられん。もうそら本当に私し自身、その後に(モウコゴッコ)位に、そのおしかりを頂いたもんです。昔は、そんな調子でしたですね。それでも矢張りお参りを続けられましたけれども、ああして、皆さんも御承知の様に、まあ大変な、おかげを受けられた方ですもんね。
 何年あの今のご普請が出来るまで位いの間に、受けられたおかげと言うのは、もうそら目覚しかったです。例えて言うなら、何段歩と言う埋められた、ひないでしたか、まつのやでしたか、枯れあがってしまって、お願いに見えた事がある。もう、それこそ、夜も寝られんごったて、山の小屋の中に、寝泊まりしてから、されるけども。おかげを頂きられん。その願いに見えた時に、ここで御神さんと御神水と混ぜたのを頂いて帰られてから、それを前の晩にずうっと掛けられたんですね。
金光様、金光様、かけられて。そして、やっぱりそこに、小屋泊ってあくる朝、目が覚めた時にゃ、その枯れ上がっとる葉、その苗が全部こうやって生き生きとしてる、甦っておった、もう本当にその時、言いよりましたが。あの、腰が抜けるちゃあの事だったちゅう位いにビックリされたと、言う様な奇跡的なおかげを受けられてあるんです。今現在ああした隆々たる、ああしたおかげを受けておられますけれどもです、現在又あんなここの総代の御用も頂き、御用もやっぱり垢抜けした御用が出来る。
 ところが最近、もう最近ちゅうが、もう何年でしょうかね。ああした、もう不思議な不思議な、病気には取り憑かれてある。現在はちょっと、旅行に出ておられる位いに健康になっておられますけれどもです。もその合間合間にもう、医者でもなんでも解らん様な不思議な、いま病気にかかっちゃる。もうどれだけ飲んでもどれだけ飲んでも、その飲まれる。そのお酒を飲まれると言う、その病気なんです。
 そして自分は、段々体が衰弱して行かれる様に、もう何日か続けられると、幽霊の様になってから、そのまあその自分がさまよい出られるんです。その町と言うか村ですから酒を売っている所に、皆な寝てしもうておる中をですね、夜中にでも酒が切れるとそげな風で、もう幽霊ごつしちから、酒買いに行かれるちゅうごたる風な状態なんです。これなんかは、私くし思うのに、又ひとつの一段階ひとつ上のですね。
 折角これだけのおかげを頂いて、折角これだけの御用も出来ておるんだから、それを本当に神様が力を与えて下さろうとする、働きがです。これがもう私しからお叱りを受けておるのじゃない、いわゆる神様から直にお叱りを受けておるんだと言う事が、悟り解らなければ、おかげにはならんと思うですね。けれども此れがです本当その憎くてこだてが当てられようかと言う、神様の思いを本当は分からなければいけんです。
 昔はようお叱りを頂いておった。怒られよった。目が飛び出るごとあった。ほんに怒られたと、私しもこげん何時か怒られた、私しも皆な怒られたと言う。皆んな話しで御座いました。それでもやっぱり残っている人達がおかげを受けておると言う。中には非常に要領よくてです、それがあなたち言うごたる風で、そのもう怒ろうと思うても、怒られん様に、要領の良い人があります。
 確かに神様、所がですその人は、神様から直にもうそれこそ、もう本当にイヤと言う様な、お叱りを受けておると言う事実をです。皆さんの周囲の誰れ彼を、見て御覧なさい。中々要領が良くてそのお叱りを、いわゆる怒ろうて思うても。これはまあ言えば昔の話し。今は私しは、もうそんなに目の飛びでる様な、叱り方も致しませんし、又自分自身がいよいよ分かって参りましたから、とても叱れるだんの私じゃないと思いますけれどもです、それとてもですね。
 矢張りおかげ頂かしたいばっかり、そげな事では、先のおかげにならん。せっかくのお参りが、せっかくの御用が、それでは死んでしまうじゃないかと、と言うんですから。矢張りそれを本当に有難く頂いて行けば、おかげのとこう思うのです。私しがここでお話しをしますと、もう本当に皆さんが又ああよかお話しなら菊栄会、もう菊栄会は椛目の大将のごたる、言わば、私し話し振りを致しますけれども、実を言うたら誉められる時には、よかごつじゃないです。
 あんまり上げられる時には、本当に改心慎みが居る時じゃ、勿論、私しは目の前で誉めやしません。けれども矢張りその陰げででもです。もうとても今頃は、もう親先生はもう菊栄会でなからにゃならんごと、言い御座るですばいち言うて、誉められよる話しを、間接的に聞くもんですから、矢張りまんざら悪い気持は、せんでしょう。菊栄会の連中も、どっちかちゅうなら、もう本当にまあ思い上がりの強い人達ばっかりのまあ集いです。それでもや貼り、神様の期待もだから大きい人達ばっかりだと。
 私くしは思うです。確かにまあ御用なら御用でも、確かに椛目の中心になって御用頂いておる人達は、菊栄会の人達だと、私は思うです。今度の御造営の事にあたっても、信心が総代をもってしておるなら、御用は菊栄会がしとると言う様な感じが致します。昨夜も、共励会から、皆んな帰えって参りましてから、正義さんが、お届け致しますのに先生もう今日はもう本当に、もう本当にビックリする様な、広大なおかげを頂きましてからち言うてから、お届けをするんです。
 昨日は、その石垣の高山さん所、石を沢山出してあった。その石を引きに、正義さん、自分所の車、二台でトラック二台で引きにいって、庭石です。そしてあの田主丸の上にこう、なって自分が先頭に立って帰って来た、所二台目んとがどうしても帰えって来んけん、見げいかじゃこてと思いよる所へその、まあようやく帰えって来た。それがもう大将、私はもう今日は、もう今日ごたる風にびっくりした事はなかったち。
 もう今日ばかりは、もう命拾いしたち言うてから、その運転手がそのまあ、そう言うそうですもん、どうしてかて聞いた所がね、丁度九大線のですね、九大線のあのレールの上でトラックが止まってから、動かなかったそうです。ま、それこそあなたあれだけの沢山の、でしょうね二台で引いて来たて言うんで、沢山の石を積んであったでしょうけど、引けども押せども。
 もうどうにもこうにもでけんのです。レールの上で、ですからほら、もういくら押しても、どうにもでけん、そこへそのまあ、車で通りよる人かなんかでしょう、それに引っぱって貰うか、どうかしてから、まあおかげで難をのがれたそうですけれども、もう本当に私しもそれを聞いただけでも、もうこれがその身のけのよだつ様な感じでしょうが。本当に今日はもう命拾いしたと、言うて、その帰って来たと申します。一応お届けしますから、私しが正義さんに丁度。
 昨日は、文雄先生が現場に来ておりましたし、引き続いて、病院の方へおかげ頂いておりますから、文雄さんと二人前にして、あたし話すんですね、あんたどんしっかりおかげ頂かないかんよと、私しが本当に最近、ひやっとするごたるおかげば頂いとっとは、あんたどんだけじゃろがと、私しが此れだって文雄さんに致しましても、ついこの頃自分の心安い友達の人が。
 あの大型の自動車を買ったんです。新車をところが自分がチョトその、いわゆるその慢心が強いとじゃもんですから、そらあ私しがいっときばかり乗りならしに乗ってやるち言うから、自分の、商売に乗って行ってから、熊本まで乗って行って、そしてダンプカーに自分が方が追突しとるもん。それでもうあの寒い小雨の降る日で御座いましたが。あのそればってんおかげはおかげですたいねえ、あれだけの事しとってから前のガラスはのかってしまっているけれど割れていなかった。ほんで前にはガラスがないので、熊本からここまで乗って来とるけん、そおにゃ寒かっただろうと思うんです。
 ここで毛布やら買って行って、そしてまたその着替えをしとらんから、福岡まで帰ったけれども。そうにゃ寒い事じゃったろうと、思うですたいね。しかもそんなに友達の車を借りてかたでしょ。しかもまあ乗ってやろ、乗りならしに乗ってやる位いな、まあ言うなら。ううだごつ言うちから乗って行っとてから、車、傷がさせとるけん。もうちょいとやっぱ。閥の悪い事でもあったろうとこう思います。けども相手は大きい車ですから。相手はどうもしてないと、自分の方の車だけはそでとった。
 あすこの麻生さんのがあちらの家内と、子供二人が乗せてから、福岡、久留米間のどっか、高い所から落ちて、そしてから子供が窓から飛び出して、車、何回転してから落ちとった。もうとてもそら本当に聞くならもう、そらもうもうお話しになるどんじゃないごたる。びっくりする様な事ですもんね。実際のその模様をまだ聞くなら、本人達から今頃のあの火事騒ぎに致しましても、おんなじです。そんならこれで正義さんなら、正義さんに致しましても、そうです。
 ああゆう現場で山の上から、転がり落ちて、大きな岩がです。下の家にまるで丁度ぎりぎりだんが落ちる様にしてから、家の上に落ちたと言うんですから、大きな家の張りばおしょって、その人家のお座敷に落ちたと。お座敷にそこに落ちた所にゃ、子供が寝せちゃった。もう本当に、もうひやりする様な事ばかり。今頃から、自分の運転していきよるにあの車にですね、飛び込んで来て怪我しとる。
 是なんかでももうお金、やっぱり五十万から取られる様な所だったけれども、まあおかげ頂いてから、まあ本当に、わずかなあれで済んだらしいですけれども。現場でやっぱ初めてあのちょっと不祥事な、あの地形突きよる時に、倒してから怪我人がでけたのも、やっぱり久富建設だったでしょうが、勿論それはおかげを頂いてから、まあ本当に思いの外軽い怪我で済んだんですけれどもです。
 昨日の話しといい、その次ぎ次ぎと起きて来る。本当に御造営始まって、こっちの事なんですよ、に起きて来る事柄といいです。あれだけのそんなら、ここで誉められる位いな、確かに信心をよう致します。御用も本当もうここの第一人者と言われる位いに、御用も出来ます。それでどうして、そう言う様な次ぎ次ぎな事が、起こって来るかと、言う事なんですよ。それこそ、憎くてこの手が、当てられようかと言う事を、ひとつ解らして頂いて、おかげを受けなければならんと、私しは思うです。
 信心が出来るから、お供えが出来るから、だからおかげを下さると言うのではない。出来れば出来る程確かに、神様の期待が大きいでしょう。あれだけ熱心に参って来るんだから、本当に神様も熱心になって、下さるでしょう。神様の喜んで下さる御用に寄与する、神様の言わば御造営なら御造営と言う事に、一生懸命に御用さして貰うから神様は御喜びだから、その御喜びの反動がです。
 本当にそれだけの力を与えたいと言う働きが、始まることなら絶対に間違いない。はあそんならもう、あんまりお参りもでけんと、そんならもうあんまりお供物もせんがよかと、言うたっちゃよか位にあるです。確かにですからもう本当にそこんところに、がたの力を頂く為のです、私しは信心が本気でなされなければならん。期待が大きければ大きいだけそれなんです。信心を本当に自分のものにしようとする、あたしゃ精進が本当に必要であると言うことです。
 昨日、久留米の田中さんがお参りになっとる。毎日、お参りして見えられる。お参りしておられるか、本人から聞きゃまだ一番分るでしょうかども、先生大体あんまり、そのそういう御神夢とか、そん御知らせなんか頂かれるタイプじゃないんですけども、その神様からやっぱり御神夢と思わなおれん様な御夢を頂いておられる。田中さんの事、わかって言うとその先生。
 本当に不思議な夢を頂いておる。それこそ夢の様な夢でしたと、お届けされるんです。それがですね、あの筑後川の様な大きな川をその、沢山のむしろとか、わらとかが浮いて行きよる。それに掴って、自分もズート流れておる所を頂いた。所がわらやら、むしろじゃけん、大体沈まなならん、どうしてじゃろうかと思いよったら、上にまあヘリコプターか飛行機の様なのが。
 ずうっと付いて行ってですね、上からつなが下がとるつなで、そのわらやら、むしろやらが、ずうっと吊り上る様にしてあった。で、それにははあ此れでこれが沈まんとばいのち、言う様な御夢、御知らせであった。お分かりになるでしょう。本当に御恵みの水の中に、なるほど例えば田中さんだけの事でもです。うんならもういく年前だったでしょうか、あ、あの店をもう、もうたたんでしまおう、言うて本気でここでお届けされた事が何回か御座いました。
 けれども神様は、あではない、こうじゃと、本当にそれを放棄せんで済む様な道を、何んとはなしにこう導いて下さって、もう言わば上から綱を引いてです、してずっとそのそのお恵みの中をこう通って、抜けて来られたと言う感じが致します。田中さんどうでもひとつ信心を、あなたの物にしなければいけませんね。何時までもこの飛行機が上から、引張って上げておってくれればいいけれどもです、又例えばそれが、私くしであるとするならです、私しが居なくなったら、もう綱が切れたと。
 同時にそのわらは沈むでしょう、沈めばあなたも一緒に沈まなきゃならんですよと、言うてお話しをさして頂いた事で御座いますけれどもです。どうでも、その信心を、自分の物しておかなければいけません。その自分を、信心を銘々のものにして下さろうと言う働きがです、お参りが出来れば出来る程、御用が出来れば出来る程です。信心を本当な、皆さんの物にして下さろうとする働きがある。
 これはまあ余談ですけれども、菊栄会の事なんかでも、菊栄会全体の上にあるんです。これはもう本当に、ひとりひとりの上に今。大なり小なりそれがある事です。高橋さんどんでも、大和さん達でも、古賀さん達でも、久保山さん当りでもです、その何かが矢張りそういう一つの難儀を、そういう様な頂き方しなければ、おかげの受けられん様な事があるのです。私その事を前に神様にお願いさして頂いて、もうあたしや菊栄会の方へは、まあ申しません。銘々がひとつ気付かないかんと思うとりますから。
 それに、私し頂きますとですね、大きなその、朴の様な感じの梅の木なんです。それにね、梅の花がいっぱい付いているです。やっぱり付いているのは、だからうぐいすも止ってるです。所が、絵を見ても実際見ましてもです、必ず梅と言うのは青い芽が、ぴよんぴよんこう、出とらなければ嘘なんですよね。青い芽がぴょっとこう、出てますでしょうが、絵を見ても実際見ても。
 それに、花がいっぱいこう、付いてるでしょうが、それが全然ないのです。私しが頂く御心眼に、ははぁこの人達どんが、成程ある意味あいに於いては、ある時期に於いてはです、一生懸命の信心辛抱もでけた時代もあったんだけれど、最近なこの頃から申します様に最近の信心は、だらぁっとしとる、そら結ぶ所は結んじゃる。それは京都の舞妓さんの後ろ姿を見る様で、だらぁっとしとるけど結ぶとこは結んであるけれども本当の、結い上げと言うものは、ようしとらん。
 いわゆる生き生きとした、青々としたと言うか、間が出る様なですか、そういう信心に今、欠けておる事を、神様はお気付け下さりよる事だけは、間違いないです。ですからそらうぐいすが来とる。花が咲いとるから、うぐいすが止まっておると言うだけに、あの人達が甘んじて、おる所にまあ神様が次々と、神様どんまあ私しが怒らんけれども。神様がお叱りを下さっておると言う気がします。
 ほらもうこげんお供えでんさして貰よるとに、ばからしかごたる、所が怒られる、その事がです。神様の言わば、期待が大きければ大きいだけ、そこん所が解ってくれよと、言うせつなる神様のおしかりの、御言葉であると、言う風にです、そこを悟らして頂いたら、一段と又垢抜けした信心がでけるでしょう。そこで皆さんが分からして頂かならん事はです、お参りがでけたから、おかげを受けるんじゃない。お供えがでけたから、おかげ頂くのじゃない。
 お供えがでければでける程、お参りが本気で出来れば出来る程です、神様の期待が大きくなる事だけは間違いない。その期待にと言うのは信心を、その自分の物にしてくれよと、その信心を自分の物にする為に、私くしが本気で変わらなければ、改まらなければ、本気で磨く事に、美しゅうなる事に、務めなければ、信心は自分の物にはならんと言う事。そこん所が、神様の願いであると言う事を、知らなければならんと思うですね。
   どうぞ、おかげを頂き。